【ROUND 1】




渦巻く熱狂の波。

滾る興奮と、静まりを見せぬ声援の坩堝に囲まれた、非日常の世界。
冬の間沈黙し続けていたこの場所にも、春の息吹と共に再び歓声に湧く季節が巡ってきた。

MOTO GP初戦、スペイン・ヘレスサーキット。

モータースポーツの到来を高らかに告げる音は、空高く轟くモンスタークラスのエンジンが吐き出す爆音。
これからの長いシーズンの幕開けに相応しく、それは遥か天上の雲まで揺らしそうなほど、低く高くその存在を知ら示すように何処までも響く快哉となった。


焼け付くアスファルトの上に立ち並ぶ、勇壮たるマシンの数々に群がる人いきれ。
メカニックやレーシングスタッフが最後の調整にと慌ただしく走り回り、その中を報道関係者がしきりにフラッシュをたいて回っている。
各国から種々様々に集うレポーター達の英語が空に飛び交う中、最も多くの光とマイクを向けられている青年が、フロントロウに佇むマシンに跨って、抜けるように澄んだ大空と同じ色の瞳を輝かせていた。


まるであつらえたかのようにライダースーツもマシンも同色のスカイブルーに染まる色をまとって、レース前とは思えぬほど静かな視線を漂わせている長身の肢体は、この場に集まる全ての視線を背負っていると云っても過言ではない程、その復活を心待ちにされていたライダーの1人だった。


名をジャン・ハボック。


2年前、現役を退くほどの大怪我を負い、それでも見事にカムバックを果たした若き精鋭の復帰レースに、サーキットに詰め掛けた観客や報道陣がざわめき立ったのも無理はない。

もう2度と走る事はないかと思われていた彼の復活そのものが驚愕である上に、2年ものブランクを全く感じさせないその走りに、人々は感嘆と賛辞の声援を絶えず叫び続けている。

北米出身の青き狼。

かつて125ccのカテゴリーでプロデヴューを果たした時にそう名付けられた青年は、天性の才能を惜しげもなく披露し、その鮮やかなるマシン捌きと最速タイムを叩き出す走りに、モータースポーツファンの心を容易に魅了していった。誰にでも気さくに話しかける大らかな性格の反面、マシンに跨った時の鋭い眼光そのままの鮮やかなライディング。

125cc、250cc、2つのクラスで王者を獲得した彼に待ち望まれていた、TOPカテゴリーであるMOTO GPでのワールドチャンピオンという名声。
だがそれを果たす前に、彼を襲った悲劇は今も尚ファンや関係者の脳裏に強く焼きついている。



あれはやはりレース初戦、1周目の中盤に起こった凄惨な事故。



スタートチェッカーが振られたすぐ後の、誰もがそこに向かうマシンの波に視線を凝らしていた時だった。


サーキットの中でも最も追い越しの激しい高速コーナーへの飛び込み、2台のマシンが順位を賭けてほぼ同列に並ぶサイド・バイ・サイドの状態で、最高時速に乗ったまま激しく飛び込んだその先に、悲劇は一瞬の出来事として誰もが予期せぬ現実としてそこに厳然と起こった。

見つめていた全ての視線が、そこに映る衝撃の映像に、声なき悲鳴を上げる。
原形を留めぬまでに破壊し飛び散ったマシンの欠片、激しい衝撃に大きく歪んだタイヤバリアー、大きく燻ぶる煙幕と砂埃が消え去った後に、静かに横たわる長身の肢体。
歪みヒビの入ったヘルメットのバイザーから覗くはずの青瞳は伏せられ、グシャグシャになったマシンの車体に下敷きとなった身体はぴくりとも動かず、悲鳴と怒号が狂奔するサーキットからすぐさま救急ヘリに乗せられた青年に突きつけられた、厳しい現実。




両足膝下部粉砕骨折、及び、両足首靭帯断裂




かろうじて命の危険は取り留めたものの、目の前に晒された過酷な現実は、いっそ死んだ方がましだったと思わせるほど非情なものだった。

非日常である世界に身を置く青年にとって、日常への復帰を約束されてもそれは意味のないものである。



何故なら、走る事が青年にとって全てであったから。



幼い頃からレースという非日常の世界に身を浸し、プロへの道を歩き出す時に誓った覚悟は、最期の一瞬まで駆け抜けること。それすら叶う事難しいのだと悟った青年は、沈黙を保ったまま密かに故郷への道を辿ったのだ。



あれから2年の月日が流れ、マスコミやメディアの前に一切姿を現さなくなっていた青年の突然の復活は、モータースポーツ関係者やファンの度肝を抜いた。そして何より驚愕させられたのは、怪我を負う前と何1つ変わらぬその走りだった。


2年前の事故など欠片も思い起こさせぬほど思い切りのいいライディング。
それこそが、プロとして始めて表舞台に立った頃から何1つ変わりがない、鋭く鮮やかなジャン・ハボックという名のライダーの証明とでも云う走りである。


いや正確に云えば、昔より更に研ぎ澄まされたその走りに、初戦を観戦しに集まった全てのファンとメディアは熱狂し、見事予選タイム2位であるフロントロウを獲得したジャンに、惜し気もない賛辞が大いに寄せられたのだった。

会場のそこ此処で、ジャンの復帰を喜び、祝い、快哉を叫ぶ中、ふとした拍子で呟かれるのは誰しもが抱えた疑問の1つ。


「一体誰が、彼にまた走ることを決心させたのか」


それに対しては一切言及しないジャンの思惑を量り、大声では問われなかったが、誰もの心の内でその疑問は解けずにひっそりと囁かれる噂話の1つとなる。



彼らは知らない。



自らの手で道を閉ざそうとしていたジャンの心に、切り裂くような輝きでもって、その先に続く道を照らした光があったことに。


2年の月日を重く鬱積した日々として過ごしていたジャンの元に現れた、何よりも眩しく鮮やかな存在として背を押した人物がいた事を。

ジャンは何も語らなかった。
語る必要はないと思っていた。
ここにいる人々には、復活を遂げた自分の走りを見てもらうことこそ本懐であると云わんばかりに。

ジャンだけが知る光の軌跡が、その傍らでずっと輝いている事を知っているのは、ほんの一握りの人達だけ。それは決して明かされることのない、真実の一端であった。











































「調子はどうだい?」
「………………サイコー」


ライダースーツよりマシンより、何より青く染まるバイザーの奥の青瞳が、光を受けて眩しげに瞬く。

その瞳の奥底に、闘争心を映す炎が宿っていることを知る人物は、それを受けて晴れやかに笑みを浮かべた。




「緊張は……ないみてぇだな?」
「おうよ。早く走りたくてうずうずしてるぜ、俺も、こいつもな」



グローブに包まれた右手で軽くタンクを叩き、きっと今はヘルメットに隠されて見えないその奥で、不敵に微笑んでいるのが容易に想像出来て、その傍らに佇む人物にも感染ったような表情が混じる。



「俺が精魂込めて作ったマシン、今度は壊すなよ?」
「素直じゃねーなぁ、無事に帰って来いって云えばいいものを…」



硬い皮の感触を頬に受けて、その指先がふと輪郭をなぞる仕草に浮かぶ苦笑に込められた意味は、2人が交わした大事な約束事の1つ。



「笑って、出迎えてくれよ?」
「……あぁ、だから1位でチェッカー受けてみせろよ?」
「ったく、2年ぶりの復帰戦だっつーのに、条件厳しいぜ」



金と青の視線が交じる1点で、言葉にせぬ光が1度瞬いた。


ここから先の厳しい世界の始まりに、言葉など何の役にも立たないことをここに集う誰もが知っていたから。


語られるべきは声ではなく、重く低く響くそのモーター音だけが知る風のうねり。
世界最高水準の技術の結晶と、それを操る事の出来るほんの一握りの選ばれし精鋭達が奏でる熱狂の渦は、今この瞬間から新たな伝説を作り上げて行くのだ。

それを万民に知らせる如く、サーキット全体に鳴り響いた高らかなサイレンは、押し迫る興奮を絶頂の天辺にまで昇らせて、レース開始1分前を宣誓する。








「……イケるな?」
「勿論」
こそりと囁くように押し当てた口元がヘルメットを掠めて過ぎ、さり気なく腰に回された腕に一瞬強く引き寄せられた。




「必ず、帰る、お前のトコに」
「頑張れよ、ジャン」



頑張れと、云うのは容易い。



けれど気力も体力も尽きた人間にそれを云うのはひどく酷な話である。けれどそれを躊躇いもなく云える相手がそこにいるというこの現実が嬉しくて。

何よりも望んでいた未来がここにあるそれが、どれだけ喜ばしいことか。

言葉ではなく叩き合って別れる2人の右手が、それを証明して青空の下、何処までも続く道の先を鋭い視線が見つめあう。

進む道程は違っても、先に待つ果ては同じゴールを目指していたから。

互いの歩む道で最善を尽くして戦いを続ける2人の道の、これが本当のスタートだった。





全ての視線がスタートライン上空のレッドシグナルを緊迫した面持ちで見上げる中、ピットに佇んだ細い肢体の持ち主はその鮮やかな金瞳をふと伏せて、目蓋の裏に広がる光景に想いを馳せた。

紅いシグナルが消えた瞬間に、青い色彩が一陣の風となってサーキットを誰より早く駆け抜けて行く様が浮かぶ。
もうそれは夢の出来事ではなく、これから現実と変わるものとなるのに、疑う余地はなかった。

もうすぐここにも、喜びと興奮に湧く聴衆の喝采の声が届くだろう。
その全てを独占するために、自分の手掛けた『足』を駆って走る彼の姿をこの目でしっかりと確かめるため、現れた金瞳は煌めきをこぼしながら遠く唸る爆音の先をただ静かに見つめ続けるのだった。


























































「ここにタキシード出しとくからなー」
「おー…」
熱い水流を放つそれに頭から打たれていると、昼間のレースでの興奮も余韻も、汗と共に流れ出て行く気がする。




シャンパンファイトでずぶ濡れになりながらも、慌ただしく会見とインタビューを行い、終わった直後にはチーム専用のバンに押し込められて、チームクルーが滞在するこのホテルへと気付けば連行されていた。


レース中に大量に放出されたアドレナリンとドーパミンが、日常の空間に帰ってきたことでようやく沈静を見せ始め、心地好い疲労と倦怠感に包まれた身体も、熱い水しぶきが癒してくれる。


手近にあったバスタオルでガシガシと手荒に髪を拭きながら、声のした方へと顔を覗かせれば、綺麗にメイキングされたベッドの上に楽しげに礼服を広げる小柄な肢体が目に入った。



「ご機嫌だな、大将」
「当然だろ?2年ぶりの復帰戦でホントにトップチェッカー受けるなんて、あり得ねーだろ普通」
「自分でけしかけといて、ナニを今更」
「だってホントに………嬉しかったんだ…」



あえてこちらには顔を向けていなくとも、三つ編みにされた金糸の間から見える耳が仄かに紅く染まっているのを視線の端に捉えてしまえば、ジャンの顔にも知らず笑みがこぼれる。



「た〜いしょ〜、そーゆー事は顔見て云ってくれた方がもっと嬉しいもんなんだけど?」
「冷てっ!あんたきちんと髪くらい拭けよ!まだ濡れてんじゃねーかっ!」

まだメカニッククルーの制服のままの細い肩を抱こうとして、ふと垂れた水滴に機敏に反応して腕をすり抜けていってしまったその背を、青瞳が面白くなさげに見つめた。



「冷たいのはどっちだか…。せっかく1位獲ったんだから、俺としちゃ熱い抱擁の1つでもしてくれんのかと待ってたのに…」
「ばっ…!バカ云ってんなっ?!俺との関係、オフィシャルに知られる訳にはいかねーだろっ!!」
「そりゃそーなんだけど…」
「早く髪乾かして着替えろよ。レセプションに間に合わなくなるぜ?今日の主役はあんたなんだから、遅れたりなんかしたら、俺がチーフにボコられる!」


2人の所属するチームのチーフ・メカニックを担う女性の獰猛な笑みが、その台詞で同時に脳裏に浮かび上がり、身長差のある身体が息の合った仕草で震えをこぼす。



「……まだ彼岸は見たくねーな………」
「俺だってそうだ。…あんたがワールド・チャンプになるまでは、死んだって死に切れるかよ…」



小さく吐かれた呟きは耳で拾うには難しいほど微かな声音であったが、2人しかいない部屋の中では、やけにはっきりと耳の奥に届いたのだった。




「………たいしょ……」
だが掛けようとした声は無機質な高音に無粋に遮られてしまう。
「はい、エドワード……あぁ、ブレダさん?何時頃出発する?」




ヘッドボードに備え付けられた受話器を取り上げたのは、より近くにいたエドの方が早く、どうやら相手は現役復帰したジャンのパーソナル・マネージメントを買って出てくれた、昔馴染みの旧友らしい。


「6時頃ね。あと30分くらいか…仕度が済んだらロビーに向かわせるよ。俺?俺はまだやる事あるから行かねーよ。ん、んんー?えーと、それに関しちゃ俺もまだ…って!?」


完全に意識を会話に向けていたエドの背中に、熱い素肌の感触があたるのに気付いて、振り返ろうとしてみても背後からしっかりと両腕が回されていてそれも叶わない。



「あ、いや、何でも…っない!じゃっ!あぁ、あーうんまたっ!」
ほとんど会話全部を叩き切るように受話器を置き、勢いのまま自分の首筋に口元を埋めた相手の淡い金髪の頭を、がっしと鷲掴んで怒鳴った。



「人が電話中にナニしてんだあんたっ?!」
「大将が俺を構わずに電話に夢中になってるのが悪い」
「ドコの子供の言い分だ!デカイ図体してっ!あっ!こら…ッん!」
わざと音を立てて吸い付かれた首元には、見なくとも紅い痕が印されたのが嫌でも分かってしまう。



「俺これからまたサーキット戻ってやる事あんだよっ!痕なんか付けんなって!」
「やる事って?」
「今日のレースで出たマシンのチューニングの結果だとか、レース全体で測定したっ…!各データの数値のレポート……とか…ッん!よせ…って!ジャンっ!」



答える間にも、悪戯な指はエドの服の裾から忍び込み、汗ばむ肌の上を這い上がって敏感な箇所を掠めては通り過ぎてゆく。


「遅れる……か…らっ!」
「大将のいないパーティに行って何が楽しい?」
「それも仕事の内…だろ……−がっ!」
忍び込む指先は動きを止めず、やはり久々のレースで興奮していたエドの肢体は呆気なく火が点けられてしまう感覚に、震えが起きるのを止められない。




「大将の肌熱い……興奮した?俺の走りに」
「……ンなモン…………いつだって興奮しとるわボケッ!!」
腕に惹かれて、走りに魅せられて、2年間現役から遠のいていたジャンに再び走る決意を灯したのは、腕の中で鮮やかに息衝く至上の光に満ちたこの金の眼差し。



「俺があんたの走りを見て、何にも感じなくなったら、それこそメカニックなんて辞めてやらぁっ!!」
「そりゃ困る」
本人は至って真剣なのだが、どこか寝とぼけたような声音は変わらずに、だがエドを求める手の動きは性急にその先を追い続けてくる。



「大将イカせられなくなったら、男の沽券に関わる」
「なっ…!何オヤジ臭いこと云ってんだあんたはっ?!あっ!も…ちょ…っ!」
「オヤジ……って云ったな?」
熱い舌が耳元をぺろりと舐め上げるのに、身体の内に籠もっていた熱が一層その温度を上げたように感じた。


興奮を覚えたのは嘘ではない。


いつだってこの青い瞳の持ち主の行動全てが、エドの心内にある炎を盛って燃え上がらせるのだ。


バスタオル越しに当たる感触が、彼がまだオヤジではない事を具体的に誇示するかのように意識的に摺り寄せられ、気付いたエドの細い肢体がぴくりと反応を示す。





「オヤジかどうか、証明してやろーじゃないか」
「よせ……って云って……んっ!…あ…ッ!」
「大将が大事な一言くれるまで、やめない」
「…大事な……?」
「約束…だったろ?」



肩越しに振り返った金の視線の奥を映すように、瞬く青瞳は思いの外真剣な色でエドを真っ直ぐに見つめていた。








「約束……したよな?」








失意と絶望のどん底にいたジャンを救い上げ、陽の当たる表舞台へと引き上げてくれた光は、ただ1つの約束の下、変わらぬ光を今も投げかけてくれている。

その約束がある限り、ジャンは何も恐れず走り出すことが出来るのだから。
誰に知られなくとも、2人だけが抱える『約束』は違えることなく明日へ導く、確固とした道標。










「……ゴメン……俺から云い出したことなのにな」
「…………ただいま、エド」









遥か高くから見下ろす大空が、光の下へと舞い戻る。


迎えるように、受け止めるように、振り返った両腕が暖かくその全てを抱き締めた。











「お帰り………お帰り、ジャン……」














柔らかく降りる口吻けは、今日始めて2人が交わす、
それが『約束』。
それが『願い』。





どんなに辛く厳しい道程であろうとも、帰る場所があるのなら、どこまでだって飛んでいける。


安らぎと強さの両方は、ホームとなったこの光がいつだって与えてくれるから。














「帰ってきてくれて……ありがとう……」
「『約束』…だからな」




込み上げる笑みが喉を震わせ、じゃれるように2人何度も口吻けと抱擁を交わし、痺れを切らしたブレダが2人の部屋のドアをノックするまで、それは続けられたのだった……。








































2006/06/27 脱稿
Sawada Yukari Presents.

甘いです。甘すぎです……。こんなんでいいのか?いえ、良くはないかと思うんですが、冒頭の話ですし、少しは甘い雰囲気もなきゃいけないかと、無駄に頑張った成果(?)です(汗;;
きっとこの後、ブレ子にチクられて師匠に2人揃って大目玉喰らう事でしょう(笑)
全然レースらしい情景を出してないんですが、レース風景を文章に起こすのは、思ってた以上に大変でした(滝汗;;;;;
コンマ何秒というレース展開を、疾走感あふれる描写で書けなんてのは、至難の業だと思い知りました(涙)ちょっと(いやかなり)無謀だったかもしれないあたし……(遠い目……
………、や。でも頑張ります。まだ始まったばかりで泣き言もウザいので;;
完全に趣味100%丸出しの話ですが、少しでも楽しんでもらえたなら幸いでありますvv