【嘆くなり〜本文見本】

*お帰りは窓を閉じて下さい。






真昼のように皓々と照る満月。

人工的な灯り1つない深い森の奥までも、白い輝きがその触手を伸ばしている。


満月の夜に森を徘徊するのは捕食者のみ。
捕食の対象となる者達は、その光の中に姿が浮き彫りになるのを好まず、其処ここに出来た陰に身を沈ませていた。
人も通わず、獣も息を潜める夜更けの森は、人外の者がそぞろ歩くのに心地好い静けさを伴なっていたのだった。



「………やっぱり満月の夜は調子がいいねぇ…」
今にも鼻唄でもこぼれそうな程陽気な声は、酷く異質な響きを持って、草木を踏みしめる足音の持ち主から発せられる。190cmはあろうかという大柄な肢体の青年は、身体に似合わぬ敏捷な身のこなしで、鬱蒼と茂る森の中を散策していた。
その青年が辿る道程は決して均された大地ではない。
伐採も開拓も何1つ行われていない、自然本来の姿。
太い木の根が大きく地に張り出し、行く手を遮るように、青年の背の高さほどもある大岩も点在する。

しかしあくまで青年の足取りは軽やかで、まるで昼の高原をハイキングしているかのように朗らかだった。

だが今は、月の光と深い闇が支配するいわゆる丑三つ時とでも呼ばれる時刻。
昼でも滅多に人の通わぬ森の奥の人影は、それだけでも強烈な違和感を醸しだしていた。
装いも、町を歩く青年達とまったく代わり映えしないのが、更なる不信感を募らせる。
けれど幸か不幸か、その奇妙な散策者の姿を目にする者は、この場には1人も存在しなかったのだった。



ふと青年は立ち止まり、胸ポケットを漁って小箱を取り出す。
咥えた1本に火を点けて深く吸い込み夜空を見上げれば、木々の間に闇を切り取ったように浮かぶ満月が垣間見えた。



「あ〜〜、ムズムズする……やっぱ町でも行って誰か浚ってくりゃよかったかなぁ………」
物騒な台詞も、咎める者がいないと知っているからこそ口をついて出る。
咥えた煙草をそのままに、毛先の跳ねた前髪の上に手を置いて、暫し瞳を閉じた。
沈黙した青年の姿は微動だにしなかったが、夜気にこぼれた何かの気配を察したのだろう。林立する木々の上から夜目が利かぬ筈の鳥たちが、一斉に夜空へと羽ばたいていた。


それを凝視める一対の瞳。


音もなく開いた瞼の奥には、アイスブルーの虹彩の中に、人間には在り得ぬ真紅の瞳孔が浮かんでいる。その身体を取り巻くようにこぼされた青年の人外の気を、真っ先に感知した鳥たちが我先にと飛び立っていったのだった。



「………安心しろよ、俺が今喰いてぇのは、お前らじゃねえよ」
満月の夜は、己が力を最大限に増幅させる。
滾る熱が指先からもあふれるように四肢を活性化させ、抑え切れぬ程の欲望の種が芽を出すのだ。
白く柔らかい肉体を思う様貪り、その血も精も、一滴残らずすすりたいと、欲する自分がいるのを知っている。



「かと云って、今町に下りる訳にはいかねーしなぁ……」
漲る力も欲求も強すぎて、目の前に次々と現れる「獲物」という名のソレを、黙ってやり過ごす事など到底出来ない。
本能の赴くままに襲ってしまうには、今の人の世は物騒すぎるのだ。
魔物が大手を振って人街を徘徊していた中世の時代とは訳が違う。
人が闇に慄き、闇に蠢くもの達を根拠もなく恐れていた時は遥か昔。
科学や工学といった学問が発達を遂げるのと同時に、人間たちは恐れ敬っていた自然に対する敬意を失くしていき、そこに存在していた闇の住人に対してもその意義を根本から否定し始めた。
狼男や吸血鬼、魔女や悪魔といった存在は、物語の中だけに存在する架空の生き物だと。


だが彼らは知らないだけだ。
認めようとしない彼らの住む世界に、人外の生き物たちは確かに息衝いていた。
人に溶け込み、身を潜ませて、普段は何食わぬ顔で外の世界を歩き回り。新月の闇夜の一時を狙って、巧妙に飢えをしのぐ。
あえて魔力の弱まる時機を選ぶのは、そうしなければ普段抑えに抑えている魔力が満月の光によって呆気なく解放され、枯葉のように人の命など簡単に狩れてしまうからだ。
塵芥同然の柔く脆い人の命だが、しかし今の世は簡単に消えた人間の事を忘れてくれる時代ではない。消えた人間が若い娘なら尚の事、どこまでも追っ手を掛けられてしまう危険性が大きい。
多大なリスクを伴なう狩りはそれだけに慎重に、充分機会を待って行わなければ身の破滅にも繋がりかねないのだった。




「仕方ねぇ………あとで狐でも狩って腹だけでも満たすか……」
本来持つ本能の要求からはかけ離れているが、それでも人を狩る以外に飢えを満たすものとしては妥当なところだろう。


生きる事に執着はないが、かといって死を望んでいる訳ではないから。


この2つは似ているようで全く違う。
怠惰な生は緩慢な死に似ているが、死そのものを望むことは生き物としての本能と摂理に背を向けることだ。神に祝福された生ではないからこそ、死が安らかな眠りであるという保証はない。



ただ、生きる。



当てもなく理由もなく、絶望に近い孤独なものであろうと、無から生まれた自分たちは無へと還るその日まで、死を許されてはいないのだ。






「………………ふぅ……………」
最後の一吸いを沈鬱な溜息と共に夜気に紛らし、咥えていた吸いさしを地面に吐き出した。
そんな青年の頭上から、凛とした声音が降ったのはまさにその時だった。
















「こらテメー、人んちの庭にゴミを捨てんな」












降る声は遥か遠く。


しかしそこは林立する高い木立に囲まれて、その姿は視認出来ない。





「…………………………な……っ……」
他者の気配にはどの種族よりも敏感なはずの自分が、そこにいるだろう何者かの気配が全く感知出来ず、危機本能が湧き起こった青年の項の短い毛が、ちりちりと逆立った。




「…………なんだ、ただの人間にここまで入って来られるわけがないと思ってたけど、お前人狼か…」
その涼やかなアルトの声音には微塵も殺気や害意は含まれていない。だが青年の心の内に、普段は眠らせている獣としての本能が囁いた。



コレは危険な相手だと……



ふるりと身を震わせた青年の側頭部に、その瞬間見事な金毛の耳が生える。
同じように腰骨の辺りから姿を現したのは、髪と同じ淡い金色に覆われた長毛の尻尾。
普段は穏やかな色を灯している青瞳には鋭い眼差しが浮かび、本来持つ好戦的な気性を表すように、口角の上がった口元からは鋭利な牙が覗いていた。




「へぇ………金の人狼なんて珍しい……お前も変り種だな?」
頭の脇に佇む耳が、その声にぴくりと反応を示す。
吐かれた台詞には頓着せず、ただ一心に背に感じる視線を全身に高めた神経の全てで確かめた。


その一瞬後、左斜め後方の一際高い木の頂を目指して、何の予備動作もなく大柄な肢体がふわりと空高く跳び上がる。
建物の3階ほどには匹敵するだろうその高さに、青年の身体は苦もなく辿り着いてみせたのだった。

しかしそこで始めて目にした眩い輝きに、人狼の青年は瞳を全開するほどの驚愕に遭遇する。




「なっ…?!」
「さすが、フルムーンの人狼はスゲェな」




木の頂の枝の先。

人1人が立つには到底あり得ない細いその先に、もう1つ浮かんだ金の月。


中央に浮かぶ満月よりも眩く鮮やかな、蜜のように甘い輝きを有した艶やかな姿態。
驚きに一瞬バランスを崩した身体を宙で反転させ、手近の枝に飛び移る。
そこから見上げた先に、今度ははっきりと、その金の麗姿を捕らえる事が出来た。



人狼と名指された青年よりも色の濃い、甘く滴る蜜のように流れる金糸。
黒一色に統一された衣服の背を覆うそれは、いとも優雅にその身を縁取り、夜闇の中でそのほっそりとした姿態を浮き彫りにする。
酷く整ったその秀麗な面差しは若く、10台とも20台ともいえるほどであったが、何よりその金の眼差しが。



空に浮かぶ満月の輝きによく似た、色鮮やかな純金の双眸。
月の光よりも鮮烈で、太陽よりも甘く艶やかな視線から、目が、離せない。



…to be continued