真円を描くに幾ばくか足りぬこの夜に、その闇は音もなく降り立つ。
何処までも深い奈落の底に似た、光も希望も飲み込む真実の闇色。
揺らめき立つ焔のような深紅の気配を漂わせ、今宵必ず来たる存在が中空の裾野から、ほの昏い空気を連れて静かにその屋敷前へと辿り着いた。
芝居じみた黒衣のコートを翻し、端整な面によく似合う冷笑を浮かべるオブシディアンの瞳の奥には、真紅の瞳孔が愉悦を映し出し。
くっと口角に潜む笑みを深くすると、その重厚な扉に手をかけるのだった。












【嘆くなり我が夜のFantasy〜act.2】










「……いらっしゃいませ」
その気配は、屋敷前に広がる広大な森に姿を現す前から気付いていた。
奥行きのある玄関先にて、大理石の床の上を音もなく歩み寄る存在に向けて、ジャンは殊更平静に対応しようと努める。



「1年ぶりだが、ここは全く変わらないようだな」
「えぇまぁ…」
「彼はもう起きているのかい?」
「はい、少し前から、仕度をしていますが」
「成る程。今日は随分機嫌が良い方らしい」



応答にもささやかながら気を使わざるを得ない。
ジャンは相手に気付かれないようそっと、緊張を解すように背に込めた力を抜こうと息を整えた。




「お茶の仕度をしますんで、こちらでお待ち下さい」
慣れぬ敬語に戸惑うのは、対峙する相手の魔力の底知れぬ不気味さが、本能の奥の警報を刺激するせいだと分かっている。

けれど1従者に過ぎない自分が、客への接待を尻尾を巻いて逃げ出す訳にもいかず、心の救い主であるこの屋敷の、そして自分が仰ぐ唯一の主人の登場を、今か今かと心待ちにしていたジャンだった。






生粋の魔族である、貴族階級の者達が重んじる礼儀作法などには、とんと縁がないどころか、本来なら立場上煩いはずの主が、率先して礼儀を重く見ない傾向にあったから、初めて従者仕えをするジャンにとっても、それは一向に学べる類いのものではない。


幸いなことに、この屋敷の主であるエドワードは然程同族との付き合いがある方ではないらしく、今までここで暮らしてきて、客たるものを迎え入れた例は殆んどといってなかった。



だが1年に1回だけ、今日この日に必ず姿を見せる黒衣の人物だけが唯一の、そしてジャンが知る限り主であるエドワードとほぼ同等の力を有す、この青年だけがこの屋敷における客分格である。





礼儀作法といっても、所詮は身のこなし方1つ。

慇懃な口調や態度は慣れぬことだが、いざ獲物を獲る際にはその大柄な身体から発する全ての気配を絶ち、流れるような仕草で動くことの出来るジャンにとって、意識して指先の動き1つにも気を配れば、それなりの所作くらいは出来ないこともない。

普段エドワードに接するよりかは丁寧に、ソーサーに乗ったカップを漆黒の存在の前に滑らせれば、酷薄な表情に笑みを湛えたその白皙が、ふと面白いものを見つけたかのように声音を向けた。




「獣人族というのも、あながち馬鹿には出来ないな。作法など習ったことなどないだろうに、洗練された動作をいとも容易く真似出来る」




洗練というよりは、しなやかな獣の動きにより近いとは思うのだが、あえてジャンは訂正せず、黙って頭を垂れる。

主人の客に対する口ごたえなど、後々どんなお叱りの種になるか分からないので、黙ってやり過ごす方が身の為だと知っていたから。










「なんだ早ぇな、もう来たのかよ」
ノックすらなく唐突に開かれた扉から、純金の暁が姿を現したのはその刹那だった。

いつも身に纏う飾り気のないラフな黒衣ではなく、今日の出で立ちは趣きの違うシルクの純白のドレスシャツ。だが流れる金の滝のような髪は背に流し、左手に何かを握ったまま、ソファで寛ぐ漆黒の青年の正面へと腰を下ろす。




「1年に1回の逢瀬だからね、早く君の麗しい姿を眼にしたかったのだよ」
「そんな美辞麗句はお貴族の御令嬢相手にでもやれ。俺を練習台にすんな」
「これは心外だな。君を練習相手になどと、思ったことは1度もないが?」
「俺相手じゃ練習にもならねぇって。あ、ジャン、俺にも紅茶くれ」

無造作に背に払う仕草で、薄暗い部屋にこぼれる眩い光源。
この主が居るのと居ないのとでは、灯りを灯した訳でもないのに部屋の彩度が先程とは打って変わって違うと感じるのは、贔屓目だけではない確かな実感があった。





「全く君は……それだけ寛いだ格好だというのに、相変わらずその華やかさには翳りがないな」
一部の隙もなくフォーマルな装いの青年に対し、いっそ無礼と呼べるほどのエドワードの砕けた格好に、しかし返る声音は愉快気な響きを宿している。



「こっちの世界じゃこの髪は珍重ものだからな。せいぜい物珍しがってろよ」
くだらないと吐き捨てるように継ぐアルトにも機嫌を損ねた様子もなく、向かい合う青年はただ薄っすらと口角を上げて笑むばかりだった。


「マスター」
背後から差し出された手が、1客のカップをエドワードの前に置くのを待ち、その大きな手にエドワードは左手にあったそれを引き換えるかのように差し出した。


「サンキュ、と、これ頼む」
「失礼します」
渡されたのは、見た目よりはずっしりと重い純金のカフスに、黒絹で出来た光沢ある髪紐。
何をすべきか了承の内にあるジャンはそれを受け取ると、エドワードの脇に跪いてひらひらと揺れる右の袖口を手に取った。




袖を止める際にちらりと覗く、右手首の傷跡。
袖を止めれば必然見えなくなるそこには、手首より先がそこに存在していないことを嫌でも指し示すようでもある。




だがそれについて、エドワードやジャンは勿論、向かいに座る青年すら誰も、問うことも尋ねることもしない。



金の麗姿の消失した右手に関しては、未だ誰も触れえぬ不文律となっているのだ。



同じ姿勢のままもう片方も同様に止め、立ち上がりその背に流れる金糸の束を手に取って、渡された髪紐で1つに束ねる作業に移る。

解けば腰まである長さのそれを手にし、こうして束ねる作業を任されるのは、従者である青年にだけ許された特権のようなものだった。

だから、この金糸を梳いて高く結い上げる度に、ジャンの胸には誇らしいような、酷く優越じみた感情が湧くのを抑えられない。
この気高く孤高な金の主の傍に、在ることを許されているのは自分だけだと、例えようもない程の歓喜をその身に寄越す事だと知っているから。




「…………妬けるね」
だから低く静かなテノールが、その一連の動きに何を感じたかは知らないが、冷めた声音で綴るのにジャンは黙したままそっと胸の内だけで、その喜びを噛み締めていた。




「正式な場に出る時は、髪を括った方がいいと云ったのはあんただろ?何か文句あるか?」
「いや賢明だよ。私の忠告を覚えていてくれたとは、嬉しい限りだね」
「以前は自分でやってたからめんどかったけど。今はこいつが居てくれるから、随分楽になったな」

後で解き易いようにと、片蝶結びに結い終えた金糸から名残惜しげに手を離せば、癖のない長めの前髪から、同色の黄金が滅多に見せない感謝の意を含んで、静かに見上げているのに気付き、ジャンの顔にも自然綻んだ表情が浮かぶ。

言葉にせずとも、共に過ごした時間の分だけ確実に信頼を分かち合った絆が、交わした視線の中に確かにそこに存在していたのだった。






「……君はいい拾い物をしたようだ」
場に漂う空気を鋭敏に察した漆黒の人影は、表情を削ぎ落としたような冷めた面に薄い笑みを刷く。


「今まで他者を毛嫌いしてきた君には、いい傾向だと云えよう。どんな形であれ、他の存在と関わっていくのは、君にとっていい兆しだ」
いとも平坦な口調で紡がれた言葉ではあっても、だが黒曜の眼差しの奥にはこの青年には珍しく、何かを愛おしむ仄かな灯りが揺らめいて、その視線を目の前の金色の肢体に注いでいたのだった。



「回りくどい言い方だけど、あんたにしては珍しくマトモな事云ったな」
その優雅な物腰からも常にない柔らかさを感じ取ってか、エドワードの秀麗な眉間がふと潜まる。




自分よりも更に遥かなる月日を過ごしている、外見通りではない年齢のこの青年には、その話術に丸め込まれて過去幾度、面倒ごとに巻き込まれたか知れない。


心内の片隅で僅かばかりの警戒感を強めながらも、整った指先を頬にあててこちらを見やるオブシディアンの瞳は、続けて何かを語る訳ではなく、静かにその金の麗姿を満足げに愛でるばかりである。

その不躾でありながら、何故か厭らしさを感じさせない熱視線に耐えられなかったのは、エドワードの背後に控える青年の方であった。





















年に1度。

人界では『オールハロウズ』を明日に控えた『ハロウ・イヴ』の今宵は、夜も遅くまで賑やかな空気が漂っている。

本来なら子供が主役のはずのお祭り騒ぎは、何時頃からか定かではないが、大人も様々な扮装や仮装に凝って街へと繰り出し、夜更けまで騒ぎが続く年中行事の一環として執り行われていた。


夜が明ければ万聖節。


世界各地から聖人が一堂に集うとされているその聖なる一夜に、聖人達がいなくなった聖地で、聖なる者とは対極をなす者達が集っている事を知る者は少ない。

生粋の魔族、それも血統を重んじる高位の一族に限られた話ではあったが、力あるもの、またその血族に迎え入れられた者たちだけが集うその席に、人間の血が混じる半人半魔のエドワードが出席することは、本人の意志というより漆黒の青年の思惑の方が大きかったと云えた。



余り自らの過去を吹聴したがらないエドワードの数少ない言に寄れば、ある1件においてこの青年には借りがあるという話だった。
身に半分流れる人間の血が、エドワードを魔族にしては稀な信義を重んじる性格に仕立てている。


エドワードは『借り』と云ったが、恐らくは恩義にも近いものを、この青年からは受け取っているのだろう。でなければ、同族との関わりを普段強固に拒むこの主が、苦手とする正装に身を包み、大人しく迎えと称して毎年ここを訪れる青年の手を、易々と取るのは余りに日常垣間見るエドワードの姿とは異なり過ぎていた。




気に染まぬ場に、エドワードが足を向けなければならないのも。
その迎えが、人狼であるジャンに時折冷たい視線を投げるこの青年であるのも。
気に食わぬ存在であるその青年が、自分のまだ知らぬエドワードの過去を言葉の端々にふと思い出したように浮かべるのも。



全てが気に入らないと云ってしまえばそれまでだ。



だが1つだけ。



普段は無頓着すぎるほど自らの容姿を顧みることのないこの麗しい主が、渋々とはいえ誂えられた正装に身を包んだ姿を目に出来るのは、数少ない非日常の喜ばしい出来事でもある。

ただ難を云えば、それを目にするのが自分だけではないという事が、同時に淋しさを催さない訳ではなかったが。






















「そろそろ刻限が迫っているな。出向こうとしようか?エドワード」
「……毎年のことだけど、ホント気が重いぜ」
「そうは云っても、君を気に入ってるのは何も私だけではないのだよ。連れて行かねば、私がどんな嫌味を云われるか分かったものではない」
「そりゃいいや、来年は是非すっぽかす方向で検討してみよう」



片眉を器用に上げて不満を表す青年を楽しげに見やり、エドワードはおもむろに立ち上がると先程入って来た扉へと足を向けた。




「上着取ってくる。ちょっと待ってろ」
「仰せのままに」
大仰に肩を竦めて返す青年に金の視線は一瞥しただけで、来た時同様音もなく静かに退室した。

一瞬不意を衝かれて出遅れたジャンは、仕方なく部屋に留まり、指先の微かな動きだけでこちらの意識を留めた青年に向き直る。








「……なんすか?」


只でさえ人狼の自分にとって、エドワードやこの青年の種族は主人格の高位の存在。
だが自らが振り仰いだ唯一の主人は、あの稀有な金の少年唯1人。
逆らうことは得策ではないが、主人の時と同じように他の存在にまで気安く振れる尾を持つほど、己の種族もまた誇りの低い存在ではない。




「聞かれることは分かっているのだろう?私が何度でも、訊ねる問いは不変のものだよ」




毎年毎度、エドワードの不在の時を狙って必ず青年がジャンに問うこの行動にももう慣れた。





「なら俺の答えも変わらないものです。『なってみせます』」







視線だけで射殺せそうなほど、研ぎ澄まされたオブシディアンの瞳に対し、少しも怯むことなく青瞳に力強い瞬きを宿して、ジャンは短く云い切った。


ほんの少しの躊躇いも、きっとこの青年は許しはしない。
躊躇ったが最後、エドワードにどれ程後に詰られようとも、この青年は自分を無の存在へと帰すことだろう。

それだけ本気が込められた問いに、しかしジャンにとっても翻せない意志がある限り、負けることは許されなかった。


己の中の誓いと矜持に懸けて。




「…………貴様の根性、どこまで続くか私は最後まで見届けるつもりだ」
「……執念深いっすね」
「当然だ。あれは私にとっても掌中の珠に等しい存在だ。瑕を付けるものは何人であろうと、許しはしない」


いっそ瞬殺であれば幸いだと思えるほどの責め苦をもって、その罪は裁かれるのだろう。
底光りするオブシディアンの中心に浮かぶ紅い輝き。

焔のように熱く、だが同時に酷く冷酷な輝きを宿すその視線に込められた殺気は、一介の人間であればそれだけで魂を奪われそうなほど怖ろしく鋭いものだった。
しかし人狼の青年の青瞳は、常と変わらず茫洋とした態度のままおもむろに懐を探り、一時我慢をしていた1本を取り出した。




「吸っても、いいすか?」
返事はなかったが、押し出された殺気が潜められたのを了承と取って、ジャンは火を灯したそれを深く吸い込む。




「云われなくても、マスターには瑕1つ負わせやしません。それは俺自身が課してることです」




主の身を守る義務。
従者としては当然のその行為は、しかしジャンにとってはそれは譲れない権利の1つだった。




「マスターのために命張れんなら、本望っす」
軽い口調に紛らして告げる本音に被せるように、ふわりと舞った紫煙が部屋を漂う。
一瞬の間、白く霞んだ光景の中で交わされた青と黒の視線の押収は、だがしかし言葉には表れずに離れて、元の静寂を取り戻す。













「ジャン、首元んトコ留めてくれ」




またも唐突に戻って来た少年は、見事なドレープを作るコートを羽織ったまま長身を見上げた。

さっきまで漂っていた微妙な空気も掻き消す傍若無人なアルトに苦笑をこぼし、ジャンは長い指先で細い首筋を着飾るリボンタイを結んでやるのだった。




「んじゃ行って来る。留守番頼んだぞ」
「行ってらっしゃい、エド」



名を呼ばれたことに、バルコニーに向けていた歩みをふと止めて、エドワードは見下ろす青瞳に向けて声音を綴る。




「何情けない顔してんだよ?すぐ戻ってくる。心配すんな」
「いや……そういうんじゃ……」




苦笑を深めて否定しようとしたジャンの額にかかる、くすんだ金髪をさらりと撫で上げ、煌めく金色の眼差しが静かに寄せられた。





「……お前がここに居る限り俺は帰ってくるから、必ず。だから待て。いいな?」
待てと云われてうっかり頷いてしまう本能にはもう笑うしかないが、先程のやり取りを知らぬはずの少年から託された想いの束に、潤みそうになった視線を紫煙で誤魔化す。










「…アイサー」
「俺の隣りを預けてるんだ。もっとシャンとしとけ」
「エ…」





伸ばした腕は、ふわりとはためく漆黒の羽ばたきに一歩及ばず。








「エド……」


己に立てた誓いは、出逢ったあの日に交わした盟約とは別に、何時いかなる時であってもジャンの心の奥底を照らす熾き火となって今も尚、燃え散りゆくを潔しとしない。



理由や過去など、本当はどうでもいいのだ。



唯1つ、その傍にいられるならば何をそこに介してでも。



必要とされてる事実だけが生み出す歓喜が心をこんなにも暖めてくれるこの現実を。



幸いと呼ばずして何と呼ぶ?
















「俺の右手でも足でも、何でもやるから……」
もうここにいない金色の輝きに似た光を投げかける夜空に向かい、煙と共に小さく呟いた欠片はきっと、想いの一端。









「隣りに立たせてくれてありがとう、エド……」











漆黒の青年の問いに、またきっと来年も同じ台詞を繰り返せるよう、人狼の青年はその真紅の瞳孔に鮮やかな月光を刻み付けるのだった。




目蓋の裏に刻んだ金の輝きを久遠に映すように…………




















































「エドワードの失くした右手には、遥かに重い意味が込められている。貴様はその右手に匹敵する存在に成り得るか?」












































2006/12/02 脱稿
Sawada Yukari Presents.

早々に登場。エドと同族の、バンパイアロイ。
大分時期は逸しましたが、せっかくなので(?)ハロウィンネタです。
ハロウィンで盛り上がる人界に下りても、然程騒がれないと思っているバンパイア2人組ですが、きっと別の意味で人目を忍ぶことは出来ないでしょう(笑)
エドの過去を知る存在のロイですが、それを語るのはもう少し後…かなぁ?(おい…)
ハボは気になるけど自分からはきっと聞かないでしょう。
エドが話してくれるまで、じっとお預け(笑)してます。